誉の理念
PHILOSOPHY
ー理念ー
私たちの仕事。それは…お客様が譽の金型を手にした時、
その先にある「未来」を描くこと。
2代目社長
坂戸の想い
「こんなに一生懸命、うまくいくまで遠くまで足を運んでくれる会社は初めてだ。」
今でこそ、お客様からこんな風に言ってもらえる誉工業所ですが、最初から、このようなお仕事が出来ていたわけではありません。
実は私、坂戸昭之は、創業者である父の大反対を押して、誉工業所に入社したという経緯があります。
社会人になって7年目のことです。
懇願
父が反対したのは、当然です。
・金型とは全く関係のない学部を卒業し、新卒で旅行代理店に就職
・営業成績はトップクラスで、収入にも満足
新卒で入社した旅行代理店を退職する理由は、どこにも見つからなかったからです。しかし、私の中で、退職理由は明確でした。
旅行代理店での営業の仕事は、いくらその年にいい成績を出したとしても、翌年にはリセット。また一からのスタートで、蓄積するものが無いのです。
疲弊していました。
一方で、父の仕事は、当時の私の目には全然違って見えました。
金型設計を通してお客様との関係性が構築されること、「また誉工業所に依頼したい」と、リピーターさまがいること。
そして、何より、スキルを磨けば磨くほど“蓄積”されていく。
自分には出来ない働き方に憧れていたのだと思います。
誉工業所への入を父に懇願。反対されても、懇願し続けたのでした。
でたらめな図面
父は、私のしつこさに根負けし、とうとう誉工業所に入社を承諾、晴れて社員になりました。
入社後は、新しく導入したばかりのCADコンピューターを担当。鋳造金型の「図面」を書く仕事を割り当てられました。
東京の大企業で働いていたんだ!
コンピューター使いはお手の物!
サラサラっと図面を書く自分を想像しましたが・・・実際のところ、金型の構造も理解していない私が、まともな図面を書けるはずもありません。
父からは、「お前、こんなでたらめな図面を書いていたら、今に誰からも信用されなくなるぞ!」と、厳しい怒号。
おそらく、父は気が付いていたのでしょう。
父の仕事を羨ましく思ったのは事実ですが、心のどこかに「転職して父親のもとで働けば少しは楽できるかな?」という非常に安易な考えがあったということを。
ここから私は、ものづくり業界の厳しさを目の当たりにしていくことになります。
型バラしと組立て
入社後の数年間は、今思い返しても、ぞっとする日々。
父は、金型の構造を全く理解してない私に、会社中の金型を、バラしては組立て、またバラしては組立てる、という作業を命じたのです。
他の社員がやっているような「設計や製造」は一切やらせてもらえず、朝から晩まで、目の前の金型をバラしては、組立てる日々。
父から聞こえてくる台詞と言えば、
「おまえを入社させたのは間違いだった」
「大卒は役に立たん」
という、厳しい言葉だけでした。
「自分は、今、いったい何をやっているんだろうか」何も産み出していない5年間。
「なんでこんな会社に入社してしまったんだ・・・」
「全部、父のせいだ」
逆恨みの気持ちが芽生えてきたのです。
今になってつくづく思うのは、自分の身内、それも息子を会社で使うことの難しさです。それはそれは大変だったはずです。
それでも、「息子だから」とひいきすることなく、逆に「将来はこの会社を背負って立ってもらいたい」という思いから、5年間は朝から晩まで金型の組み立てと解体をやらせていたんだと思います。
今なら、今なら分かるのですが、当時の私は、そこまでの考えに至らず、ただただ、恨みながら、金型の解体をする日々が過ぎます。
価値を産む喜び
そんな状況の中、私の仕事人生を覆す、私にとって大きな出来事がありました。
次の仕事として、父は私に、東京の鋳造メーカー「東京鋳造所」へ担当者とすることを命じたのです。
当時は「ものづくり産業」が非常に活発な時期。取引先の鋳造現場は、猫の手も借りたいほどの忙しさです。父は、「営業」の一環として、私を派遣することにしたのでした。
ですが、ここでもうまく行きません。
いくら、金型の解体を数年繰り返していたとはいえ、まだまだ新米の域。いい加減な設計で、お客様から「鋳造機に取りつかねーような金型作ってんじゃねーよ!」とよく言われたものです。
それでも、鋳造の現場の中で、金型が、鋳造機の中で、どんな風に使われているか、
そして、鋳造している側の担当者さんが、日々、どんな悩みがあるのかも、肌で理解。
徐々に、仕事への取組み姿勢も変化し、鋳造メーカーの社員さんから、鋳造や金型に関する相談をしてもらえるようになっていったのです。
鋳造がうまくいかない時には、自宅に持ち帰って、その解決策を考えました。もちろん、秘密保持契約があったので、機械の仕組みや構造を持ち出すことは出来ません。だから、鋳造機を目で見て脳裏に焼き付け、その記憶を絵にしながら、解決策を考えました。
こういった仕事を繰り返しながら、私は、
「鋳造機を見れば、どういうアルミ製品をどういう方法で作れば良いか」
「この金型のどこに問題があるのか」
工程全体や、設計方針が頭に浮かぶ特殊能力が身についていったのでした。
これが、
「鋳造を支える金型」
「鋳造メーカーと金型メーカーの関係性が価値を産む」
ことを実感した最初の出来事です。
社長業の重み
その後、私は2代目の社長に就任。
社長の仕事は、これまでの仕事とは一線を画しました。
ここで働く社員の生活、納品物への責任。
ただ、与えられた役割をこなせばいいというものではありません。
仕事をとってこなければ、話にならない。
手あたり次第、「鋳造メーカーの御用聞き」をして回りました。
ですが、あまりうまく行きません。
もともと、需要が減っている業界です。
さらに、どのメーカーも必死になって営業活動をしている中で、こんな若い二代目社長を気にかけてくれるメーカーは、ほとんどありませんでした。
このままでは、社員を養えない。就任してすぐに、会社を潰してしまう。そう躍起になっている時、とあるお客様から、このようなお褒めの言葉をいただいたのです。
当たり前が価値に
「この金型を新しく蘇らせて、今まで以上に良いアルミ鋳物製品を提供してもらい、正直信じられない!」
若いころ、「東京鋳造所」の担当を命じられた経験がある私にとっては、「良いアルミ鋳造製品」を提供するということは、ある意味、当たり前のことでした。
だから、そのことに価値があるという事実は、気にも留めていなかったのですが、お客様にとっては、そのことが、「信じられないくらい」の出来事だったのです。
私自身は、もともと、
お客様が欲しいのは「アルミ鋳物製品」であり、究極的な言い方をすると、金型がなくても鋳造できるなら、金型は要らない
という考えを持っていました。
が、よく思い返してみると、この考え方こそ、あの日、父に命じられ、金型メーカーの社員として鋳造メーカーと協業したからこそ、育まれた想いだったのです。
再スタート
「金型メーカーとアルミ鋳造メーカーの協業」
私にとって、あの時、当たり前のものだと思ってやっていたこと。
ですが、それは、お客様にとって大きな価値であること。
その気付きこそが、「誉のものづくり丸投げサービス」のスタート地点。
その後、萩原産業と協業するためにアライアンス契約を結び、誉のものづくり丸投げサービスがスタートしました。
業界の常識を覆すようなこの取り組みは、少しずつ業界に認知され始め、喜んでくださる会社さま、お付き合いを続けてくださる会社さまの輪が徐々に広がっている状況です。
父が作ったこの会社に入社したことを後悔し、恨んだ過去。それでも、父が私に命じた仕事が「協業」という価値観を育て、巡りに巡って、この会社を助けてくれました。
真の協業
私達の「協業」は、なにも、誉と萩原産業だけの話ではありません。
この、ものづくり逆風の時代、これまでのように仕事を取り合うような「競争」は終わりにしなければなりません。
なぜなら、仕事の取り合いから、本当の価値は産まれないからです。
お客様にとって本当に価値ある「協業」、それを、業界全体に広げていけたら、そう願っています。
ものづくり業界の未来。誉工業所と共に創造していきましょう。